増山の足あとSteps of Masuyama

全国各地を訪問させていただいております。
全てをご紹介できておりませんが、地図上の“赤いマーカー”は「増山のあしあと」として記事投稿をしたところを示します。

海外の都市に“青いマーカー”が立っています。これらは過去の仕事・案件に関係する場所を示しています。
海外における足あと」でこれまでの仕事・案件をまとめて紹介していますのでぜひご覧ください。

海外における足あとSteps in overseas

私はこれまで海外でも仕事をする機会がありました。海外での仕事、生活を通して多くのことを学び、感じ、考えてきました。
2015年、政治家としての道を歩き始めましたが、その理由のひとつとして海外での経験が大きく影響しています。

増山の足あと」の地図で海外に青いマーカーが立っていますが、これらは海外での仕事・案件で主に訪れ、関わりのあった都市にマーカーを立てたものです。
マーカーを立ててみて我がことながら、たくさんの経験を積ませてもらったなぁ、と感慨深いものもあり、これらの経験を活かさないと、と改めて強く思っています。

1件、1件の仕事・案件についての内容の掲載まではできておりませんが、これまでどのような実績を積んできたかを振り返ってみますと大きく分けて4つに分けられ、それらの柱を立ててきたのではないかと思います。

第一の柱

海外での活動について

私の海外での仕事のスタートはフランス留学とパリでの日本大使館勤務でした。
そしてその後の欧州課長としての欧州における仕事、これが第一の柱になります。

時はバブル最盛期のころ、1990年から1992年まで経済産業省、人事院からの留学生としてフランス留学をさせていただき、国際的な知識と経験の基礎を築かせていただきました。
留学先は、欧州の政治家、官僚そしてビジネスエリートが多く集まるフランス国立行政学院(ENA)でした。

ここでは、異文化の人に、どのようにしてわかりやすく、印象的にそして自国の国益を守りながら主張していくか、という国際関係論を中心に実践的な講義と研修をさせていただきました。
特に、ブルゴーニュ州のマコンという県では多くの経験を得られました。外国人でありながら副知事として各種式典にて挨拶などさせていただくこともありました。地元の人々に温かく迎えられ、ブルゴーニュは私のもう一つの故郷ともなりました。ブルゴーニュでは地域の中で生(活)きている、との特色を強く感じることがありました。

一例ですが、ボルドーが大規模農業経営でワインを城ごとにつくるのに対して、ブルゴーニュでは“おらが村ごと”に自慢のワインをつくり、しかも一番いいワインはその村の倉に眠らせる、という日本の地方の地酒造りにも似た伝統が残っていました。ワインぶどうの収穫は過酷で腰をかがめながらの手作業です。そのため腰の曲がった老人が多く見受けられました。
日本の農村でもみることができる同じ光景ですね。きつい労働の場にあっても懸命に働き、自分たちが作り出すワインに自信、誇りを持ち、また産まれたものは最上のものを楽しむ、というまさしく’生きている’を強く感じました。

その後約10年後に再びフランス大使館に勤務して、今度は日本の地域の産物を欧州市場に売り込むという最前線の仕事の手伝いをさせていただきました。岐阜の瑞浪の陶器や今治のタオルなどの産物をルーブル美術館での式典に出品させていただき、売りこみ、日本の地域の力をPRいたしました。
懐かしい思い出です。

日本のアニメを組織的に欧州市場に売り込むことにも奔走いたしました。
また、日本の”食”を意気高らかに欧州市場に売り込むことを本格化したのも懐かしい思い出です。
日本の食文化を伝えるのはたいへん難しく、例えば当時の欧州人では日本人がなまの魚を食べると聞くと、生きた魚を頭からむしゃむしゃ食べるとイメージしていた人も実際多かったのですよ。

帰国後の活動について

帰国してすぐに欧州担当課長になり、全欧州の国々との具体的プロジェクトを欧州でのこれまでの経験を生かして目に見える形ですすめることに邁進しました。当時は、日本はアジア一辺倒の外交で、欧州の関心も中国に向いていました。日・欧州の関係はますます希薄になっていく状況でしたが、自由と民主主義、自由経済といった普遍的な価値を共有する日・欧州が強くなることが世界にとっていかに有益かを強く訴え、行動いたしました。この結果、日・欧州でEPA(経済連携協定)を結ぶ交渉をはじめることもできました。当時は日本の経済界も円安だったこともあり、協力を得るのは難しく、苦労もありました。現在、ようやく交渉がまとまりつつあることをとっても嬉しく思います。

これからの国政でも欧州から学ぶべきことはまだまだあります。
例えば、関税で守れなくなった農産物をどう守るか、(欧州域内の関税はゼロですから、ハンガリーの農産物とスペインの農産物がロンドンで勝負するわけです。)物流改善、食品添加物規制、そして地域のブランドを守る地理的表示保護などこれらがカギとなり、学べることが多くあると思います。日本にとって、大変参考になる戦略です。(2015/12/22 農林省から地理的表示保護制度の登録品目の第一弾として「夕張メロン」や「神戸ビーフ」などを発表)

他には、欧州を動かすにはEU委員会への働きかけよりも“EU加盟国から火をつけなければならない”との観点から欧州加盟国をきめ細かくまわったのが懐かしい思い出と財産です。

第二の柱

資源外交について

第二の柱は資源外交です。

私は資源関係の仕事が比較的多く、特に海外での資源獲得競争に参加し、閣僚とともに政治的な解決をはかるという大技が得意でした。

例えば中央アジアの諸国との関係です。
ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン等の中央アジアの国々とはロシア、中国との緩衝地域にあり、また親日国ばかりという戦略的に重要な関係にあります。
(この地域の名前に’タン’がつくのが多いのは、昔、トルコ系の軍人たちが領主として、時には傭兵としてこの地に君臨していたことを表しているともいわれています。)
この地域は、まさしく、ロシア、トルコ、中国などの人種の交差点であり、宗教的にもイスラム教、キリスト教、仏教などの多様性を包含する地域です。

この地域には石油、ウラン、石炭天然ガスなどの資源が多く眠っています。中国、ロシアだけでない第三者としての日本の役割を期待する地域なのです。
小泉総理の中央アジア訪問、甘利経済産業大臣の中央アジア資源外交(多くのエネルギー企業を同行していました)などを契機に単なるODA外交でない経済外交がスタートした場に携わり、活動できました。

アフリカとの関係について

次にアフリカとの関係です。
TICADという日本主導のアフリカ開発国際会議があります。
私は、担当課長として三回目の経済産業省代表を務めました。
代表となれましたのも当時の経済産業省ではアフリカに頻繁に行く管理職は皆無で、仕事が少ないということと、時間と予算がないという理由からでした。
いろいろな制約のある中、欧州出張に行く際には必ずドバイ経由、或いはモスクワ経由にして、行きと帰りには必ず中東、アフリカなどを訪れ、プロジェクトのフォローをすることに努めました。

度々の関係諸国との調整などの甲斐もあってか、TICAD3では投資貿易の目標を二倍にするというコミットを日本がし、しかもそれを容易に達成できることができました。
ひとつの思い出になりますが、甘利経済産業大臣と南アフリカを訪れ、ワールドカップ開催を控えた南アフリカのムベキ大統領に広島モルテン社の一万個のサッカーボールを贈呈できたことが懐かしいです。

アフリカでは再生可能エネルギー関連でも活動もしました。アフリカは再生可能エネルギーの宝庫です。再生可能エネルギーに関する国際会議を設立する条約に署名する国際会議がエジプトのシェラムシェキトというシナイ半島のダイビングで有名な町で開催されました。当時、再生可能エネルギーヘの注目は低く、政局は大きく動いているさなかで、選挙直前であった会議に参加していただける閣僚政治家はおらず、悩んだ末に、大学・役所の同期の西村康稔外務省政務官に政府代表委員として出席・署名していただくことがありました。
まさに、政権交代前夜、また東日本大震災前で、再生可能エネルギーヘの注目も現在と雲泥の差がある時代に資源確保に奔走する経験をしました。

中東諸国との関係について

アブダビの皇太子は石油がいつかなくなることを恐れて再生可能エネルギーにも力を入れています。
そんな中、二階経済産業大臣の発案で、日本の新エネルギー技術を中東諸国の大使に見せようということになりました。和歌山の御坊にある新エネルギーパークに中東大使全員を連れて、二階大臣ともに技術の粋を見せるとともに、和歌山県沖のメタンハイドレートを皆に見せて、燃焼させてみせる、ということもさせていただきました。(メタンハイドレートは、燃える氷ともいわれています。日本近海に多く眠る将来の期待エネルギーです。これは燃やすと純粋な水ができ、しかもその水は冷たい飲み水となるので。。)二階大臣や中東大使の前で、燃焼した水を飲み干すというパフォーマンスをさせていただき、喝さいを浴びる、一コマもありました。

資源外交を言えば、昔は「油乞い外交」といわれた時代がありました。
特に中東からは、日本は油がほしい時しか来ないともいわれていたのです。
中東諸国が困っていることを、寄り添って支援することが真の資源外交となると私は考えます。

中東諸国が困っていること、それは人口爆発と若年者の失業、高齢者の糖尿病や肝臓病などの成人病問題です。教育と医療がカギだと行動しました。
教育では、現地の日本人学校への支援と現地の王族の子弟の入学奨励を図りました。
しかし、そこで困ったことが起きたのです。中学までは日本人学校が現地にもあるが、その後の高校をどうしてくれる、という話になったのです。彼らはなんでも一番でなければ興味を示しません。しかも、日本の高校には宗教的な有名校が多くそこに自分の子弟を留学させるわけにはいかない。
そこで、日本から立命館(アジア太平洋校)、慶応、田村学園、そして灘高校の校長先生と一緒に中東に行って日本の高校への留学の橋渡しをしたのです。

贅沢三昧の中東の王族の子弟の親は、日本でしっかりと躾をさせてほしいと願っていました。
その彼らにとって、灘校では、いまだに職員室や教室には石油ストーブにヤカンが乗っていて、質実剛健な教育をしていること、また電子黒板が主流になる彼らにとって、黒板と白墨で日本の高校教育がなされていること自体驚きでした。
異文化の日本での教育をあいまぜながら、教育の支援をはかりました。

医療では生体肝移植の世界的権威の京都大学の田中名誉教授を同行してアブダビの皇太子に会っていただき、日本との医療協力のスタートを切りました。

第三の柱

対ロシアについて

第三の柱は対ロシアの経験です。

わたくしは、欧州留学から資源石油関係、その後のロシア担当課長をしていたこともあり、ロシアはこれまでずっと私の関心地域です。
欧州にいると日本では想像もつかないくらいロシアの存在は大きいものだとわかります。

本来は日本も欧州と同様にロシアの存在を大きく考えないと国際関係を見誤ることになります。
日中関係も常に二国間関係でなく、ロシアを入れた三角形で考えることが日本にとって重要だと考えます。

ロシア外交の想い出のひとつは、自信あふれる、しかし、恐怖と相互密告で成り立っていたソビエトが崩壊した直後の、途方に暮れていたあのロシア。アル中ともいわれたエリティン大統領を迎えた伊豆川奈での国際会議があります。間近に見たエリティンは確かに顔が赤いなと思っていたら、やはり暑さでダウンするというハプニングもありました。
あの時、もうひと押しで北方領土問題も解決できたかな、と繰り返し思いもしたりします。

その後、エネルギー、鉄道協力、再生可能エネルギー協力、そして中小企業協力など、ことあるごとに接点を持ち、多くの友人もできました。

第四の柱

対アジアについて

最後の柱、第四の柱それは、もちろん対アジアの経験です。

これはビジネス、中小企業協力などがいつも中心でした。
成長分野だからといっても、儲け続けるためには、いいパートナーを見つけること、相手国政府の透明性を高める努力を官民一体となって進めること、それが大事です。
そのためにTPPなどの枠組みをしっかり使っていかなければなりません。

今から20年以上前のことになりますが、飛行機で隣になったある女性繊維経営者が中国深圳にいくとの話しでした。日本の大阪の工場をたたんで、人件費のやすい深圳に行くこと、中国市場をバラ色に語っていました。当時は海外に製造拠点を持ちビジネスをするという話しが多くありました。
最初は中国での製造を始め、ビジネスをするとの話であったのが、いかに日本で日本製のファッション繊維製品を買ってもらえるか、海外でも売れるかで盛り上がりました。
女性経営者には元々は日本での製造、日本ブランドを売る思いが強くあったのでしょう。

今では深圳の人件費は大阪とそん色なく、深圳は製造業よりも、むしろIT産業の集積地にもなっています。最近は香港からの飛行機では、中国からのビジネスマンよりも観光客と同席することのほうがめっきり多くなりました。時代は変わるものですね。

結びに

時代は変わり、移ろいます。その流れに乗らないと生き残ることもできません。厳しい環境、困難な場面もあるでしょうが、自国、地場・地域に自信・誇りをもち、明るく取り組んでいきたいです。

日本の地域経済を支えているものは中小・小規模事業者です。中小・小規模事業者が元気でいる(いられる)ためには政治の役割は大きいと考えています。政治家の道を歩む今、海外での広く・様々な経験をしてきたことを活かして、日本全国を巡り少しでも皆さまのお役に立てるよう頑張ります。